5. 平安時代から鎌倉時代へ

ー大慶寺旧境内遺跡の調査 鎌倉考古学研究所理事 齋木秀雄ー

 

「調査地は鎌倉市寺分1丁目で、大慶寺山門前に山門を背に立つと、正面右手の小さな枝谷内に位置している。

(中略)

調査の結果、およそ4枚の生活面・遺構検出面とそれらの面に伴う遺構が検出された。(中略)

検出遺構や出土遺物の整理作業は現在進行中であるが気付いた問題点について考えてみたい。

 まづ本地点では、3面(現地表下120㎝、13世紀前半)から中世のかわらけ皿が出土し、4面(現地表下130㎝~140㎝、10世紀中頃までの生活痕跡)から古代の緑釉陶器、灰釉陶器が出土している特異な点である。この事実は、平安時代後半から鎌倉時代初めにかけて、断続的ではあるが、有力な人物が居住していたことを示している。鎌倉の旧市街地を離れた地域で手づくねかわらけ皿がある程度まとまった量で出土することは極めて稀である。(中略)

 本地点の西方を流れる柏尾川には古舘橋が架かり、その西方には平安時代の豪族 村岡氏が居住したと伝わる遺跡もある。梶原氏はこの村岡氏から派生しており、寺分地域と村岡氏そして鎌倉幕府との関係を再検討する必要がある。(後略)」

(「かまくら考古第22号」平成26年9月刊 編集 特定非営利活動法人 鎌倉考古学研究所 なお、調査は有限会社 鎌倉遺跡調査会によって平成26年4月から同年6月にかけて実施された。)

 

 「和名類聚抄」(承平年間937年頃 源順著)に鎌倉郡の郷名として見える梶原郷、その歴史の中で「吾妻鏡」が伝える治承4年(1180)石橋山の合戦で頼朝を救った梶原景時。「平家物語」が語る一の谷の戦いで500余騎を従えた景時の「鎌倉権五郎景正が末葉、梶原平三景時、一人当千の兵ぞや」との大音声。「愚管抄」の著者慈円(関白九条兼実の弟)をして、「鎌倉ノ本躰ノ武士」と評さしめた景時の生まれ育った館跡の可能性があるとしたら、その期待はおおきなものがあります。

 

(文責 天野 参考「相模武士第1巻」湯山学著 2010刊)